コラム

no.007
「幼稚化する社会」とその背景にあるもの

2014年11月13日 | マーケティング推進部 ゼネラルマネジャー 菅桂次郎

先月末にニュースになった日本(渋谷)のハロウィン騒動。「楽しそう」と純粋に感じた方には大変失礼ではあるが、「ちょっと違うんじゃない?」と首をかしげた私としては、反骨精神コラムニストとして一言物申したい気分になったのである。

ハロウィンの詳しい由来は敢えてここでは取り上げることはしないが、“子供が楽しむため”に“大人が盛り上げる”という国がほとんどの中、“大人が楽しむため”に“大人が盛り上がる”という日本の現状は、良くも悪くも異常に映ってしまうのだ。

今回の騒動に限らず、以前に比べると社会全体が「幼稚化」しているような気がしてならない。特にここ数年でそのスピードは加速しており、危機感すら覚えるのは私だけだろうか。

私が子供の頃に思い描いていた30歳は「大人」だった。 経済的な自立は当然であり、むしろ精神的に自立している人間をイメージしていた。気づけば私も37歳であるが、けっして「私は立派な大人です」という主張がしたい訳ではない。私自身も、戦前戦後を生き抜いた世代の人たちや、もっと以前の日本人、そして経験豊富な方々(私より年下も含む)と比較すれば、まだまだ「未熟な」大人なのだと思う。

ただ、私が主張したいのは「未熟」と「幼稚」は違うということである。 「未熟」の意味は、「十分な域に達していないさま」ということになるが、その意味の中には、これから成長する可能性を含んでいる。一方、「幼稚」の意味は、「年齢などから期待されるレベルよりかなり低いさま」であり、通常は「悪い評価」として使われることが多く、期待の意味はほとんど含まれない。そして、今回私が問題にしたいのは、「未熟な」ではなく「幼稚な」大人である。

では、その背景には何があるのか。あくまで私見ではあるが、「孤独になる時間」が激減したことが影響しているのではないだろうか。「孤独」といっても、物理的な状態を指すのではなく、あくまで心情的なものをここでは指す。簡単に言えば、「自分自身と向き合う時間」「内省する時間」を避けるようになったため、精神的な成長が停止(もしくは後退)してしまった大人が増えてしまったのだと考える。

現代人の我々は、常に外部環境に刺激を求めがちである。 TV、インターネット、携帯電話など、「自分の空いた時間を埋めてくれるもの探し」に躍起になり、自分自身の内面に向き合う時間から逃げてしまう癖ができてしまった。自分の存在意義を第三者からの評価に求めるのではなく、自身の内面に価値を見出すことにこそ、人格陶冶の道が開けてくるのではないだろうか。

そういう意味では、かなり高度なレベルを要求される訳だが、その大前提として、「謙虚さ」という人間としての基本姿勢が問われているのだろう。

いつでも、誰とでも簡単に繋がることができる社会だからこそ、孤独と向き合い、自分自身に向き合い、これからの人生でどんな事が起ころうとも、泰然自若としていささかも動揺しない強い心を持った大人に、私はなりたい。